平成21年9月30日〜10月4日 松山市立子規記念博物館3階 特別展示室
私の「作品」へのこだわりはトータルファッション
個展でこだわるのは会場の空間をどう演出するか!それには作品の展示にウエイトが置かれる。
子規記念博物館の3F特別展示室は、ケースが4ヵ所ある。そのケースを活かせるようにイメージし、作品制作をしている。作品展示には必ず、順番があり、私の表現意図が物語風となっている。だから、『目録』に書いてある通りの展示である。次に【表装】これは、私と表具師さんとの感性による。会場と作品との統一感は、【表装】にある。【表装】は、「トータルファッション」の一翼を担うものと同じ。作品を「おしゃれ」に見せたい!それには、作品・額・マットの一体感がいる。 『額』は、「色・形・幅・素材」にこだわる。『マット』も、作品のイメージによる。『マット』の素材は、着物地が多いが、洋服地を使うときもある。昨年は、帯にもトライした。「色・模様」が作品とマッチするか、これに時間がかかる。表具師さん(文琳堂)と私のセンスが一致したとき、初めて決まるのである。
ポスター
入口の様子
グッズの展示/ご挨拶
代表句
放浪に明け暮れた山頭火さんの「湯」と「澄」の人生【私・旅・酒・俳句】
山頭火さんの新たなる再出発
−行乞・庵住・雑草風景−「三八九居」から「其中庵」へ
【草庵の立地条件 山村であること・水のよいところ・温泉地であること】
山頭火さんのリズム
−行乞・庵住「其中庵」から「風来居」へ
山頭火さん、ひょいと松山へ 「一草庵」
解説の様子
パフォーマンス (山頭火の句をタンゴの曲に合わせて揮毫)
『山頭火さん』にとって《意中の人》とは
一人は、「近代俳句の祖」(正岡)子規さん。昭和7年9月19日の日記に、「子規忌、子規はゑかった(私としてはあの性格はあまり好きではないけれど)、革命的俳人としては空前だった、ひとりしづかに彼について、そして俳句について考へた、床の花瓶には鶏頭が活けてあり、糸瓜は畑の隅にぶらさがってゐる」
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
昭和10年の子規忌の日記には、「子規忌、子規逝ってから三十四年の今日である、俳壇の推移展開を考えるー」と書いています。
昭和11年の命日には、「子規忌、子規逝って何年、年々鶏頭は赤し」と記しています。
もう一人は、自由律の俳人(野村)朱鱗洞さん。自由律俳句の創始者、荻原井泉水の「層雲」の創刊時から活躍していました。次代を担う人と嘱望されていましたが、大正7年、25歳で夭逝。(大正7年10月、流行のスペイン風邪が原因で他界。26歳。山頭火さんは11歳上ですが、朱鱗洞さんには一目置いていたようです。
昭和7年4月10日の日記には、「(木村)緑平老のたよりによれば、朱鱗洞居士は無縁佛になってしまってゐるといふ、南無朱鱗洞居士、それでもよいではないか、君の位牌は墓石は心は、自由俳句の中に、自由俳人の胸のうちにある」と記しています。盟友、朱鱗洞が、無縁仏となっていることを供養する文。
山頭火さんにとって『意中の二人』は、松山の俳人です。