平成19年11月21日〜25日 松山市立子規記念博物館3階 特別展示室
私は2002年奈良「東大寺無限展」へ、不器男の句を書表現し出展しました。
この時、国立モスクワ芸術大学名誉教授でいらっしゃる村岡信明先生のご講演がありました。
演題は『日本の芸術と文化について』。内容は、「現代日本の美術界の体制が師弟制度に尾をひくヒエラルキー構造である」という事でした。このご講演を拝聴する事は私にとって、興味深い事であり後の書道人生の方向性を示唆して頂いたと言えます。
その当時の私は、次々とヨーロッパへの出展依頼、それに伴って揮毫、マスコミへの登場と仕事が順調すぎました。これは有難い反面、日本の美術界の中には権威のある団体がいくつもありますが、私はどこへも所属しておりませんし、又、公募展へ応募もしておりませんので何ら資格のない私が、高名な方々とご一緒してもいいのかと疑問に思っておりました。
何度かの出展と揮毫等を重ねるうちに、私の意識はヨーロッパの人達から受けた熱い眼差しと関心の高さから変化が起こってきたのです。村岡先生のいわれる、封建制度に繋がる家元制度、師弟関係に尾をひくヒエラルキーは、特定の師についての師の作風と表現を出来るだけ忠実に模倣し従属することから始まります。模倣した作品は芸術とはいえないと私は考えます。そこに、その人自身のオリジナルな生命が息吹いていないからです。
私の書は、従来の日本における伝統的な書のスタイルではなく、自由な発想で独自性があるといわれます。それは、わがままで気ままな性格がそのまま反映しているのだと自分では思っております。
そんな中で子規の句『芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし』(明治31年)に出会いました。子規が派や伝を重んじるあまり本来の目的を見失い、何も新しいものを生み出さない人々を批判した句であり、俳句革新の原点ともいえます。
そして、不器男の句との出会いは『永き日のにはとり柵を越えにけり』春の日差しがゆったりとした時間と空間の広がりを感じさせます。にわとりが柵を越える様は、自分の道を見つけ、今まさに羽ばたこうとしている情景です。これは私自身でもありこの個展開催は、新しい将来へのテリトリーともいえます。
私は、子規の句に出会うことにより、俳句書における私自身の原点を再確認することができました。又、不器男の句に出会い、筆を通してダイナミックに表現し、多くの方と語り次の展開へと果敢にも挑戦することができるチャンスにも恵まれました。
これは、私のコンセプトを子規と不器男に求めたアイデンティティといえます。
今後も更に、俳句のイメージを膨らませながら書表現し、オリジナリティーあふれる世界を構築してまいりたいと考えております。
揮毫実演 ≪パフォーマンスと音楽のコラボレーション≫
◆題材:子規の「ベースボール句」
◆音楽:アルゼンチンタンゴ「夜明け」
子規遺稿「散策集」
子規は、明治28年4月日清戦争の従軍記者(新聞「日本」)として、中国へ行き、かえりの船中で大喀血。8月、養生のため松山へ帰郷。学友、夏目漱石が松山中学校に英語教師として在住していたのでその下宿、愚陀仏庵へ50日余り居候。健康を回復した子規は、郊外への散策を試みその紀行句集を「散策集」と題しました。
<子規は松山近郊に5回の散策>
◆明治28年9月20日
柳原碌堂(極堂)と石手寺、道後公園へ
◆明治28年9月21日
中村愛松・柳原碌堂(極堂)・大島梅屋(松風会員)と常楽寺から御幸山麓へ
◆明治28年10月2日
一人で、石手川堤から薬師寺へ
◆明治28年10月6日
漱石と、道後、大街道新栄座の芝居小屋へ
◆明治28年10月7日
村上霽月に誘われて、正宗寺から余戸、今出の霽月邸へ